始皇帝の残したもの

兵馬俑坑の近くにある墳墓は、始皇帝の死後から約100年を経て完成した司馬遷の「史記」によると、地下宮殿を造り、黄河や揚子江などの流れを水銀で再現し、銅を流し込んで棺を造ったとある。鯨油でできた蝋燭の火が永遠に消えることのないよう配置され、盗掘に備え弓も仕掛けられたとある。115メートルであったとされる陵墓の高さは今は約80メートルで、それを囲んで内壁と外壁の跡がある。周囲約6キロに達するという外壁の内側で、すでに約600のピットの発掘が進んでいる。宮殿に付属する建物、王子や王女の墓、厩、めずらしい動物や鳥を埋めたものなどが出現し、生前の生活を地下に再現する始皇帝の設計が次第に明らかにされつつある。陵墓の建設に38年を要したとされているが、始皇帝は紀元前210年に49歳で死んでいるから、13歳での即位とほぼ一致する。帝王や貴族は生前から自分の墓を築く習慣があったようである。100体を越す人間の骨格が無造作に積み重なっていたピットもあり、苦しんだ様子を示すものもあることから、建設に従事した労働者が生き埋めにされたと推定されている。

1980年に、陵墓のふもとからわずか20メートルしか離れていないところで、青銅製の二台の馬車が発掘された。もともとは木製の棺のなかに収納されていて、棺が朽ち、かぶせてあった土が、馬、馬車、御者を押し潰していたので、修復に8年を要したという。金や銀で装飾が施されており、始皇帝が使用した馬車であったことが確認されたが、原寸を二分の一に縮小したものであった。それでも重さはそれぞれ1トンを超える。修復された二台の馬車は、Pit 2の博物館に陳列されているが、一つは、横になって休めるようになった寝台車のようなもので、空調用の精巧な窓の設計があり、地元の案内人によれば最古のクーラー付き馬車であり、もう一つは、立った姿勢で視察ができ、太陽の位置にあわせて傘の傾きが調節できる仕掛けが備わっていた。これを別の模型で示して、技術の高さを誇っていた。

始皇帝が使用した馬車模型  撮影:2005/03/23
始皇帝が使用した馬車模型 撮影:2005/03/23


始皇帝が使用した馬車模型  撮影:2005/03/23
始皇帝が使用した馬車模型 撮影:2005/03/23

始皇帝は、墳墓、兵馬俑のほかに壮大な万里の長城の建設でも知られる。その頃の中国の人口は約2000万であったと推定されていて、その十分の一の約200万が長城建設や土木事業に動員されたといわれる。春秋時代にあった数多くの都市国家は、次第に都市連合を形成し、戦国時代には大きな領土国家へと変遷した。始皇帝が最後に残った東方の六国を統一するのに約30年かかったとされているが、都市国家を象徴した城壁に代わって、統一国家を象徴する万里の長城が登場したわけである。その位置は、現在残っているものより北にあったものが多いようで、主たる相手は北方の騎馬民族の匈奴であった。

焚書坑儒と評判の悪い始皇帝ではあるが、馬車を使っての視察を頻繁に行ない、そのための道路を多く建設し、馬車の車軸の幅を統一したり、漢字や度量衡の統一もおこなった。新道路は、幅67メートルの松並木であったという。大帝国の統治を、既存の諸侯を封建して間接統治とするのでなく、郡県制による直接統治としたことは、これが最後の王朝である清朝の滅亡(1912年)まで続くのであるから特筆に値するであろう。全帝国を36郡にわけ、郡をさらに県に分け、郡には行政長官(守)と軍政長官(尉)を任命した。毛沢東は、大革命をなしとげた自分は、始皇帝いらいの大政治家とみずからいったそうである。

長城建設や土木事業のほかに、約80万の農民が匈奴征伐や南方征伐のために強制労働を強いられたという。膨大な日数を要する遠征には経費もかかり、農民運動の種を残し、秦帝国は始皇帝死後、わずか4年で崩壊した。秦を攻めた楚の猛将項羽が、秦の宮殿を焼いたとき、燃え尽きるのに三ヶ月を要したということであるが、この宮殿は、西安市の北を流れる渭水を渡った咸陽にあった。現在の咸陽市には、西安の空の玄関口、咸陽飛行場があるが、秦の都であった咸陽の別名は渭城である。唐代、西域に行く人を都の長安から渭城まで送った習慣は、友を送った王維の詩、「渭城の朝雨軽塵をうるおす( サンズイに邑)、――――」で有名である。項羽は宮殿を焼いた後、河を渡って長安にはいり墳墓の破壊も行なったが、紀元前206年の破壊時、墳墓や兵馬俑はまだ建設途上であったと「史記」に記載されているという。これは、始皇帝の死が、その4年前の東方視察時に突然おこったことから説明できるであろう。

Pit 1の近くにある映画館では、360度のスクリーンを使って、項羽の軍隊が、あたかも観覧者にむかって四方八方から襲いかかるような臨場感を演出していた。項羽の軍隊によって破壊された兵馬は、黄土の堆積に埋没して長い眠りについたことになる。その項羽も、同じ楚出身の劉邦(漢の高祖)にかこまれて(四面楚歌)まもなく死んでしまう。地方の農民運動を全国的な規模に発展させて政府を打倒するやりかたは、中国の政治に特有な方程式の感がある。現地で買った兵馬俑に関する本から、「史記」の詳細な記載について勉強することが多かった。

 

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