(4)ダニューブの女王ブダペスト

ブダペスト空港に到着したチェコ航空の旅客機  撮影:2009/08/30
ブダペスト空港に到着したチェコ航空の旅客機 撮影:2009/08/30

チェコからハンガリーへはチェコ航空の双発のプロペラ機で移動した。離陸してしばらくのあいだは騒音と振動がはげしかったが、低空飛行のおかげで眼下にひろがる景色を楽しむことができた。隣国スロヴァキアを飛び越えてハンガリー平原の上空に達したとき蛇行するダニューブ川が光ってみえた。ハンガリーの首都ブダペストまで約一時間半の飛行であった。空港からは旅行会社の案内でダニューブ川に停泊するクルーズ船に向かった。船に到着するとすぐに二週間滞在する客室に案内され旅装を解くことができた。午後のお茶と夕食の合間に翌日のバスでの市内観光の案内があった。

ダニューブ川に停泊するクルーズ船River Emperess。後方はエリザベート橋  撮影:2009/08/30
ダニューブ川に停泊するクルーズ船River Emperess。後方はエリザベート橋 撮影:2009/08/30

クルーズ (Cruise) とは船に乗ること自体も楽しむ旅の方法である。太平洋や大西洋を周遊する大型の豪華客船はこの種の旅行としてよく知られている。河川を航行する場合には小型の船型とならざるを得ないが、客室、食事、設備などに細かな対応することには変わりはない。乗船したクルーズ船River Emperess は、長さ110 m、幅11.4 m の134 人乗りの船で、最後尾が乗客全員を収容するレストラン、船首部分はバーなどがある大広間であった。船室は数室を除いてすべて同じ広さであるが、窓の大きさの違いで料金が異なる。部屋からでて大広間やデッキからも景色を楽しめるほか、24時間自由に飲み物が楽しめるラウンジや読書室、それに運動、サウナ、洗濯のできる設備もあり、売店も一日に数時間開店している。動くホテルという謳い文句で、ホテルマネージャーという職員がいる。

ダニューブ (ドナウ) 川はドイツ南部の森林地帯 (Black Forest/Schwarzwald) に源を発する全長2850 kmの国際河川で、ヨーロッパではヴォルガに次ぐ長流である。おおむね東または南東に流れてブダペストに入るが、ここから河口の黒海まではまだ約1600 km程度を残している。広大なハンガリー平原はダニューブの中流域に位置する。

ダニューブ川に架かる鎖橋  撮影:2009/08/30
ダニューブ川に架かる鎖橋 撮影:2009/08/30

ブダペストはダニューブ川西岸のブダと東岸のペストから成る。両岸を結ぶ鎖橋は吊り橋で、その建設に功労のあった伯爵に因んでセーチェーニ橋とも呼ばれる。1839年にイギリスの設計者を招いて建設が始まり10年後に両岸が始めて橋で繋がった。第二次世界大戦中、撤退するドイツ軍によって破壊されたが1949に再建された。橋の全長375 mから推測されるように、このあたりの川幅はそれほど広くはなく、1241年に侵略したモンゴリア軍は凍結した川を渡ったといわれる。

 遊牧民マジャールの騎馬隊と初代国王聖ステファンの銅像  撮影:2009/08/31
 遊牧民マジャールの騎馬隊と初代国王聖ステファンの銅像 撮影:2009/08/31

鎖橋をわたってペスト地区にはいり、リストの銅像がある国立オペラ座や大邸宅などが並ぶあるプラタナスの並木道をゆくと「英雄の広場」や「市民公園」につづく。パリのシャンゼリゼ通りを思わせるこの優雅な通りはアンドラーシ通りで、その地下にはロンドンに次いでヨーロッパで二番目にできた地下鉄が走る。「英雄の広場」はハンガリー王国建国の歴史を示す場所である。14人の英雄の銅像が円弧状に広場の一端を囲んでいるが、その前面中央に、ひときわ目立つ七人の騎馬像がある。その先頭をいくのはマジャール人の首長アールバードである。
マジャール人はウラル山脈沿いの草原にいた遊牧民で、9世紀頃からヨーロッパ各地に進出したが、神聖ローマ帝国の初代皇帝オットー一世 (在位 962- 973) に敗れた後ハンガリー平原に定着した。後方にならぶ英雄たちの先頭をきるのは、キリスト教化の政策を進め1000年にハンガリー王国の初代国王となった聖ステファンである。マジャール人の話す言語が今日のハンガリー語であるが、ヨーロッパで話される諸言語とは系統が異なりむしろアジア系の言語といわれる。日本語のように人の名前は姓を名の前におくのが正式の書き方である。

ブダ城  撮影:2009/09/01
ブダ城 撮影:2009/09/01

モンゴリア帝国の侵略 (1241) を受けた翌年、ハンガリー王ベラ四世は国の守備を固めるべくダニューブ川の西岸に砦を建設した。これがブダ城の始まりである。戦略的に重要な地点であることは勿論であるが、川をみおろす景観の素晴らしさを誇る居城として代々の王達によって改築、増築されていった。ハップスブルグのマリア∙テレジア (ハンガリー女王在位 1740 – 1780) によって部屋数203の大改築が行われたことはよく知られている。しかし破壊の繰り返しも看過できない。オスマントルコの侵略、第二次世界大戦、ハンガリー動乱時のソ連軍の進駐 (1956) などである。現在の堂々たるバロック様式のブダ城は、オーストリア帝国フランツ∙ヨーゼフ一世 (在位1848-1916) の時代のものを1980年に再建したものである。

オーストリアハップスブルグ家によるハンガリーの統治は、1541年から約150年続いていたオスマントルコ帝国によるハンガリー占領をヨーロッパ連合軍 が撃退した1686年に始まっている。フランツ∙ヨーゼフ一世は実質上最後のハップスブル帝国の皇帝で、第一次世界大戦の終了(1918)をもって帝国が終焉する2年前に逝去する。その70年に及ぶ統治は、民族主義や自由主義の台頭という時代のうねりの対応におわれ、1867年には、ハップスブル帝国をオーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割し、ハンガリーの内政権を大幅にみとめることを余儀なくされている (オーストリア∙ハンガリー二重帝国)。ハンガリー王国最初の首相の名はプラタナス並木のアンドラーシ通りに残っている。フランツ∙ヨーゼフ一世の皇后エリザベート (愛称シシィ) はウィーンを嫌い、愛するハンガリーに住むことが多かったが、穏健独立派のアンドラーシ伯爵を助け、ハンガリーが自治を獲得する際の陰の功労者といわれている。ブダペストには彼女の名を冠した橋や銅像が現存する。

マーチャーシュ聖堂  撮影:2009/08/31
マーチャーシュ聖堂 撮影:2009/08/31

マーチャーシュ聖堂はオスマン帝国の支配時にはモスクに変化し内部のフレスコ画は白く塗りつぶされたという。反オスマンのヨーロッパ神聖同盟軍がブダを包囲した 1686 年、同盟側の砲弾が聖堂の壁にあたり、壁の内部にあった古いマリア像が祈祷中のイスラム教徒の前に姿を現したという。士気をそがれたオスマン軍はその日のうちに撤退したといういかにも中世の宗教戦争の時代らしい話が伝えられている。オスマン軍の撤退後、19世紀後半になってようやく教会の復旧作業が始まるが、建築家シュレクがハンガリーの代表的なタイルを使ってモザイク模様の屋根を作り出した。修復時には論争を呼んだようであるが今ではブダペストの名所となっている。ハップスブルグ帝国の最後の二人の皇帝、フランツ∙ヨゼーフとカール一世が、ハンガリー王としてそれぞれ1867年と1916年にこの教会で戴冠式を挙行している。

ブダ地区にある古い建物  撮影:2009/08/31
ブダ地区にある古い建物 撮影:2009/08/31

マーチャーシュ聖堂の近くにブダ地区では最古という建物がある。建物の中央部からおおきな梁が突出しているが、この構造は 14 世紀由来のもので、建物自体は 15 世紀のものという。「最古」というだけで詳しい説明は聞けなかったが、オスマントルコの占領は16世紀中葉に始まっているから、赤茶色の幾何学的な壁面装飾はハンガリーの伝統的なもので、オスマンの占領中や反オスマンのヨーロッパ同盟軍の攻撃にも生き残ったものと推測される。

ブダ側からみた対岸の国会議事堂  撮影:2009/08/31
ブダ側からみた対岸の国会議事堂 撮影:2009/08/31

首都ブダペストの象徴である国会議事堂は比較的最近の建造物で1904年に完成した。設計者シュタインドルはハンガリーの森や平野に広がる自然の風景を表現したといわれる。公募に応募したほかの二人の設計図も採用され、民族博物館、農業博物館となった。ネオゴシック式の建築は1885 年に始まっている。 1989 年にハンガリー人民共和国からハンガリー共和国へと改称されたとき、その宣言はこの議事堂内でおこなわれた。一年を象徴する365個の小さな尖塔をもつ横幅約270 m、奥行き約120 mの壮大な建物は、対岸や船からでなくてはカメラに収めることができない。議事堂内の豪華な天井のフレスコ画や内部装飾、戴冠式に使用した王冠や宝剣などは、国会の開催されていない時には見学できるようである。残念なことにその機会を逸した。

ヨーロッパ最大のシナゴーグ  撮影:2009/08/31
ヨーロッパ最大のシナゴーグ 撮影:2009/08/31

第二次世界大戦時、ブダペストには約25万のユダヤ人が住んでいたとされ、その20 % がナチスドイツによって処刑されたとされる。40 % であったという数字もみられる。それでもなお、今日ハンガリーに住むユダヤ人の人口比率はヨーロッパでは一番高い。このシナゴグは3000 人の参会者を収容できヨーロッパ最大のユダヤ人教会である。建物は1859 年に完成したもので、その頃の建築家の一部に採用されたムーア様式の復活形態で建てられている。北アフリカやスペインにあるビザンチン様式の建築に類似するもので、赤茶色のタイルで幾何学的な壁面装飾をもつ。

ブダペストの中央市場  撮影:2009/08/31
ブダペストの中央市場 撮影:2009/08/31

エリザベート橋の南に自由橋があるが、そのたもとに中央市場がある。ネオゴシック様式の大きな建物で、鉄筋構造はエッフェル塔で有名なフランス人Gustav Eiffel が設計した。1890 年に青果市場として開業して以来ブダペストの台所を預かる。ハンガリーの特産物の一つにパプリカがある。唐辛子のような形をしたものが多くみられたが辛くはなく、鮮明な色と甘い香りを活かしたハンガリー料理に多用されている。市場は地元の人たちだけでなく観光客も沢山おとずれる名所となっている。

ダニューブ川の夜景  撮影:2009/08/31
ダニューブ川の夜景 撮影:2009/08/31

夜の帳が下りると鎖橋の豆電球が連なって文字通り鎖橋となる。ブダ城や国会議事堂にも夜間照明が施されてダニューブの女王とよばれるブダペストが輝く。ダニューブ河岸、ブダ城地区、アンドラーシ通りを含むブダペストがユネスコの世界遺産に登録されているが、夜のダニューブ川はその代表選手といっても過言ではないであろう。

ブダペスト大学を背景にクルーズ船はウィーンへ  撮影:2009/09/01
ブダペスト大学を背景にクルーズ船はウィーンへ 撮影:2009/09/01

ブダペストに二日間係留されていたRiver Emperess は、三日目の朝、次の訪問地であるオーストリアの首都ウィーンにむけて出発した。300 kmほど川を遡ることになる。クルーズ船は、はじめは少し南下して、エリザベート橋や自由橋を潜り前日に行けなかったブダペスト大学やゲッレールト温泉などを船上から見せてくれた。ハンガリーでは古くから沢山の温泉が湧き出しており2000 年の温泉文化を有する。オスマントルコに支配されている時に、ダニューブ川河畔に温泉施設が発展した。クルーズ船はその後北上をはじめ、左岸のブダ城そして右岸の国会議事堂を後にした。

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