(17) オスマンの故郷ブルサ

ミダス王のものとされてきた大墳墓  撮影:2012/04/02
ミダス王のものとされてきた大墳墓 撮影:2012/04/02

アナトリアでの最後の宿泊地ブルサに向かう途中、アンカラからからおよそ1時間半でゴルディオンに到着した。アンカラの西南約70キロの地点にあたり、古代アナトリアで栄えたフリギア王国の都があった。このあたりにある大小80を超える墳墓はフリギア王国の王族のものとされている。

フリギア人は、紀元前12世紀頃におそらくヨーロッパからアナトリアに移住してきたとされ、ヒッタイトの崩壊との関係は不明とするのが一般的であるが、アナトリア文明博物館発行の冊子では、その頃のギリシャ人の植民活動がヒッタイト王国の滅亡につながったと記していた。実際には、紀元前750年以後のことしかよく分かっていないとも述べている。これまでフリギア王ミダスのものと伝えられてきた高さは55メートルの大墳墓は、直径が約300メートルもあり、最近は、先王ゴルディアスのものとする説もある。

墳墓の玄室に通じるトンネル  撮影:2012/04/02
墳墓の玄室に通じるトンネル 撮影:2012/04/02

調査のために掘られたトンネルが見学者のために残されていて、墳墓の中心点にある遺体を納めた玄室につながっている。100メートル以上の狭い通路の両側は、調査の時に作られたと思われる石の壁になっていた。

切り出された玄室の跡  撮影:2012/04/02
切り出された玄室の跡 撮影:2012/04/02

松や杉で作られた玄室内にあったベッドは崩壊していたが、横たえられていた遺骨は損傷なく残っていたと報告されている。玄室の周囲は砂利が埋め込まれ、遺体や青銅製の埋葬品などを納めてから屋根をおき、その上に石を積み重ねてから土を盛ってあったと報告されている。玄室の周囲を支えていたのは大きな丸太の枠組みで、紀元前8世紀と同定されているから、2,700年以上も腐食を受けずに残っていたことになる。

これまでのところ、およそ25の墳墓の発掘調査が実施されたようであるが、東ではアンカラのアタチュルク廟を建設するさいにも発見されているし、西ではブルサへ向かう途中にあるエスキシェヒルという町でも発見されている。

ゴルディオン博物館 の入口にあるアレキサンダー大王の絵     撮影:2012/04/02
ゴルディオン博物館 の入口にあるアレキサンダー大王の絵 撮影:2012/04/02

ゴルディオンは東西交通の要衝で、アケメネス朝ペルシャ(紀元前550−330)の時代には、メソポタミアのス−サからアナトリア西部のサルディスにつながる「王の道」とよばれた約2,700キロの公道がここを通った。ス−サから7日間で到達できる幹線道路で、サルディスはエーゲ海沿岸につながる重要拠点であった。西方からは逆にアレキサンダー大王がペルシャ遠征の途上「王の道」を利用し、ゴルディオンに到達した。その後も、セルジュック軍、十字軍、またオスマン軍もこの道を通った歴史街道であった。最近では、第一次大戦の直後、トルコ西岸に上陸したギリシャ軍も西方のエスキシェヒルを奪ったあとこのあたりまで進軍してきた。

アレキサンダー大王は、「ゴルディオンの結び目」という伝説を残した。牛車に乗ってきた男が王になるという神託だけが存在していたこの地に、ある日、農夫とその息子ミダスが入ってきた。王に推されたことに感謝した父と子は、牛車を神殿に奉納し轅(ながえ)を支柱に結び付けた。アレキサンダーの到来時、アケメネス朝ペルシャの属州フリギアに、牛車はそのまま残っていてそれまで誰も解けなかった複雑な結び目をアレキサンダーが解いたという逸話である。

大墳墓の近くにある小さな博物館では、外壁にはアレキサンダー大王の絵 があり、展示物にもギリシャ関連の陶器が多かった。ミダスはギリシャ神話にも登場する人物で、彼の触れるものはすべて金に変わった、ロバの耳をつけられたなどの逸話がよく知られている。

羊を追う農婦と巨大な犬  撮影:2012/04/02
羊を追う農婦と巨大な犬 撮影:2012/04/02

ゴルディオンを後にしてブルサに向かった時、添乗員が「もしかしたら牛くらいの体躯をもった大きな犬が見えるかもしれない」と注意を喚起した。一瞬であるが、羊と一緒にいる大きな犬が窓外にみえた。それ以外の「王の道」は、農村地帯や草原が展開するだけのやや退屈な平和な街道であった。

フリギア王国の墳墓が発見されていると前述したエスキシェヒルは、アンカラとブルサとのほぼ中間点あたりで、オスマン帝国の発祥地ともいってよいところである。ルーム∙セルジュック朝の王カイクバードが、モンゴリアの兵におわれて窮地に陥っていたとき、わずか400の騎馬兵を率いていたオスマン一世の父がカイクバードを助けた。これがきっかけでエスキシェヒル近郊の土地を封土として授けられたという伝承からオスマン帝国の歴史が始まるからである。父の死後、オスマン一世は勢力を確立して1299年に王位についたとされ、この時をもってオスマン帝国の始まりとするのが一般的である。アナトリアの多くの町がオスマン一世の攻撃によって陥落したとき、残る主要都市はブルサだけになっていた。

ウル∙ジャミイの外観  撮影:2012/04/02
ウル∙ジャミイの外観 撮影:2012/04/02

初代君主オスマンはブルサを攻撃中に急死し、2代目のオルハンが父の意志を継いでビザンティン帝国からブルサを奪い、1326年に、首都と定めた。2代目のオルハン(在位1324−1360)の時代に、はやくもダーダネルス海峡を渡ってヨーロッパ大陸に進出し、3代目ムラト一世(在位1360−1389)は、第二の首都といえるアドリアノープルを確立する。現在のトルコの西の端にあるエディルネで、ギリシャ国境まで5キロ、ブルガリア国境まで10キロの町である。1453年にコンスタンチノープルが陥落するまでのおよそ100年間、帝国のバルカン支配の重要拠点であり、コンスタンチノープルがイスタンブルとなって帝国の首都となっても、副都として宮廷がおかれた。ブルサは15世紀初頭まで行政の中心であったことになり、コンスタンチノープルの攻撃を率いたメフメト二世は第7代であるから、最初の6代がブルサの行政に関与したことになる。

ブルサの町の中心部に、帝国第4代のバヤジット一世(在位1389−1402) の建設したブルサ最大のモスクであるウル∙ジャミイがある。オスマン帝国初期の建築でセルジュック時代の様式を残すものである。

ウル∙ジャミイの内部  撮影:2012/04/02
ウル∙ジャミイの内部 撮影:2012/04/02

ウル∙ジャミイの多柱式の内部構造は、20のドーム屋根を柱が支えているためで、イスタンブルでみるオスマン帝国最盛期の柱のない構造とは大きくちがっている。柱と柱の間の上部にあるドームから柔らかい自然光がさしこむので、照明はほとんど必要ないくらいに明るい。寺院の柱や壁には、建設当時の有名な書道家が制作した200に近い作品が飾られていて、書道博物館の様相を呈する。

メッカに向かって礼拝をする市民たち  撮影:2012/04/02
メッカに向かって礼拝をする市民たち 撮影:2012/04/02

モスクをイスラム寺院と呼ぶことも多いが、神、天使、預言者、聖者などの像は認めないのが教義であるから、一般的な寺院に共通する崇拝の対象物が建物内部にあるわけではない。この意味かららモスクと呼ぶのが紛らわしくなくていい。人々はメッカの方角に向かって礼拝をするだけで、その方角を指し示すミフラービという壁に付与した窪みがあり、これが必須の設備といえる。人々が必ずその前に坐るわけではない。大きな都市では金曜日の合同礼拝をおこなう大きなモスクがあり、これがジャミイと呼ばれる。

メフメット一世の霊廟イェシル∙テュルベ  撮影:2012/04/02
メフメット一世の霊廟イェシル∙テュルベ 撮影:2012/04/02

ブルサ攻撃中に急死した始祖オスマン一世は、ブルサにあった教会を改修したモスクに埋葬された。以後、歴代のスルタンをブルサに埋葬する習慣が生まれた。なかでも第5代のメフメット一世(在位1413−1421)の霊廟は、その美しさによって多くの観光客を集めている。分裂した帝国を短い期間のうちに統一したことで知られるスルタンである。八角形の霊廟は、イェシル∙テュルベ(緑の墓)とよばれ、外壁のほぼ全面が緑というより紺碧の空をおもわせる青いタイルで被われている。1855年のブルサ大地震のあとに、すでに陶器の生産がイズミックからキュタフヤに移っていたので、そこで生産されたタイルで改修されたとされる。

イェシル∙テュルベ霊廟の入口  撮影:2012/04/02
イェシル∙テュルベ霊廟の入口 撮影:2012/04/02

霊廟の入口の上部は洋傘を半分開いたような、どんぐり形のドームになっているが、こちらはイズニックタイルの装飾と説明されているから地震による損傷を免れたのであろう。

メフメット1世の棺台  撮影:2012/04/02
メフメット1世の棺台 撮影:2012/04/02

霊廟内にある棺台も青を基調にしたタイルで飾られ、アラビア文字で書かれた銘文もみえる。イスラムの習慣で、遺体は棺の中に納められるのではなくて棺台の下に埋葬されている。まわりには家族の棺台が七つ配置されている。棺台の背後にある長方形の窪みが、メッカの方向を指し示すミフラービである。内壁にタイルを貼るオスマン様式への変化がみてとれる。

繭の館コザ∙ハヌ  撮影:2012/04/02
繭の館コザ∙ハヌ 撮影:2012/04/02

オスマンの首都となって以後のブルサは、アナトリアにおける商業の一大拠点となった。オットマン帝国時代は、宮廷用の絹織物を産出しただけでなく、シルクロードの西端の町としてイランあるいは中国からも絹を輸入するほどの盛況を呈した。ジェノヴァやヴェネツィアの商人たちはも絹製品の交易に従事したとされる。現在も繊維産業の盛んな町でヨーロッパのブランド品の下請けなどで繁盛している。

市街の中心にある広場には、かって繭の競売が行われた「繭の館」とよばれる建物が残っているが、内部は高級衣料店などがひしめきあっている。

繭の館の後ろに広がる市場  撮影:2012/04/02
繭の館の後ろに広がる市場 撮影:2012/04/02

繭の館の背後には庶民が買い物を楽しむ市場がある。2011年現在のブルサ市の人口はおよそ170万で、郊外を含めれば200万近くになる。第二次世界大戦後、ブルガリア共産党政府が約15万のトルコ人を追放したことがあったが、そのうちの三分の一はブルサに定住したといわれる。オスマンの故郷ブルサは、繊維と食品の伝統産業のほかに自動車産業の中心地になり、トルコ第4の都市になった。

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